鍋林の創業家である島家の始まりは、室町時代の文明年間(1460年代)まで遡り、かつては地方の豪族、武士であったとされています。
松本藩とのかかわりは江戸時代の寛永年間(1630年代)の頃からと伝わり、初代当主・島林右衛門高信が勘定所物書役や鋳工師目付として、また、6代当主・島林蔵が金物御用達(鋳造業が主体)を命ぜられたとされます。社名「鍋林」の由来もこの頃に端を発していると思われます。金物を中心に商売を行っていたことから、当時の屋号は「鍋屋」。当主は代々、林蔵や林右衛門を襲名していたことから、地域では「鍋屋の林蔵さん」、「鍋屋の林右衛門さん」と呼ばれるようになり、いつしかそれを短縮して「鍋林さん」になったのだとか。
江戸から続いていた松本藩の金物御用達も明治維新を機に役割を終え、その後、市中での商いも明治21(1888年)年、中心市街地の大半の町家を焼失するという“松本の大火”により、鍋林の歴史は一旦リセットされることとなりました。
火災から3年後の明治24(1891)年、島家14代当主・島林蔵が「鍋林商店」を創業。それまで商いの中心だった金物だけでなく荒物、雑貨に加え、薬種の取扱いを始めました。これが鍋林の現在の基礎です。
林蔵は、薬種の取扱いを本格的に始めようと、長男・孝三郎を薬種商へ丁稚奉公に出す一方、林蔵自身は薬種商鑑札許可を取得しました。
(城下町に京都の文化を)
林蔵は、金物商として、飾金具などを仕入れるために京都へ出向く際、松本近在の農家から繭を集めては京都へ持参し、帰路には雛人形を仕入れて帰り、松本・高砂通りの現在鍋林本店在所にて商売を始めました。松本市の高砂通りは現在、人形の町として知られており、林蔵の行動が松本の文化の一翼も担っていたと思われます。
また、進取の気性に富む林蔵は京都からの帰路、理髪店でちょんまげを切った姿で帰宅。当時で言うハイカラなヘアスタイルで道行く姿は、町の話題になったというエピソードも残っています。
明治33(1900)年頃からは取扱品目が増え、化学薬品(試薬)のほか工業薬品や写真材料、物理化学器械、ガラス器、染料、塗料、度量衝計量器と広がりました。
薬種商の修行で実務経験を積んだ孝三郎が戻り、同38(1905)年、2代目店主として家業を継ぎました。 日露戦争後の同40(1907)年には松本に歩兵第五十連隊が設置され、新たな取引き先となりました。販売先も官庁や学校などを中心に、県蚕糸試験場や県工業試験場、片倉組松本製糸場など、地域の主力産業へと拡大。
取扱い品目が増えたのは、お得意先が増えるにつれ、それぞれの要望に1つひとつ応えた結果でした。誠実な対応や利便性、積極的な取組みの姿勢が評価され、今日の多角化につながる礎を築きました。
昭和3(1928)年、孝三郎は50歳の若さで急死。この時、長男の島幸太郎はわずか16歳でした。松本中学を中途退学し、家業を継ぐこととなります。さらに、それから間もなく祖父・林蔵と母を相次いで亡くし、幼い妹弟6人や従業員を抱えての厳しい船出となりました。
ところが、バイタリティのあった幸太郎は、営業地域を地元松本だけでなく隣接する大町や小谷、木曽、諏訪、伊那へと販路を拡大。取引き先が増え、取扱い商品も多様化する中で「卸売業は情報産業である」という信念を見いだし、卸業経営の原点はお得意先と仕入れ先とを必要な情報でつなぐ「縁結び」であると確信。当社の普遍のテーマが誕生しました。
昭和のはじめには金融恐慌、世界恐慌と経済不安に見舞われたほか、日中戦争、第二次世界大戦、太平洋戦争と続く戦時経済体制の中、県内には軍需産業や生活基幹産業などの企業疎開が増えました。昭和電工や日本ステンレス、三菱重工名古屋航空機製作所、宮田製作所、富士電機製造、石川島芝浦タービンなどのほか、医薬品業界では千代田製作所、帝国製薬、協同薬品などがありました。これらの企業との取引きに成功し、それに伴う取扱い商品の拡大が飛躍の足がかりとなりました。
また、戦時経済体制の時代は原料・資材の供給は軍需産業が優先で、闇値の横行も目立っていました。しかし当社は戦中戦後を通し、一貫して従来からのお客様への安定供給を最優先。闇値には一切応じませんでした。これが取引きの信用を増大し、今日の発展へとつながっています。