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鍋林中興の祖 島 幸太郎 OB座談会

鍋林に受け継がれる「幸太郎イズム」

島 幸太郎

島 幸太郎

昭和初期の鍋林商店時代から戦中、戦後、高度経済成長期を経て昭和61年(1986)まで、58年間の長きにわたり代表取締役社長を歴任した島幸太郎。

父親の急逝に伴い、旧制中学の学生だった16歳で家督を相続することになった一青年は、その後、事業を拡大し「卸売業は情報産業である」との名言とともに、現在の鍋林株式会社の礎を築きました。

その教えは「幸太郎イズム」として実際に薫陶を受けた社員から、現在の社員にまで連綿と引き継がれ、鍋林のバックボーンとなっています。

鍋林の歴史を語る上で欠かせない島幸太郎の当時の姿を知る5人のOBのみなさんに、“人間・島幸太郎”を語っていただきました。

会社の成長の裏側にあった、豪快かつ繊細な社長の姿が見えてきました。

プロフィール

【職歴】
・大正元年10月21日 松本に出生
・昭和5年4月 松本中学校(現松本深志高校)中退
・昭和5年4月~ 鍋林商店店主
・昭和7年6月25日 薬種商試験合格
・昭和9年4月11日 加津美と結婚
・昭和23年4月~ (株)鍋林商店代表取締役社長
・昭和38年7月~ 鍋林株式会社代表取締役社長
・平成9年12月8日 逝去

【受賞歴】
・昭和39年11月 長野県知事表彰(薬事功労)
・昭和41年  1月 全国中小企業団体連合名誉総裁表彰
・昭和43年11月 松本市長表彰
・昭和48年10月 厚生大臣表彰(薬事功労)
・昭和49年11月 藍綬褒章(薬事功労)
・昭和50年12月 紺綬褒章(社会福祉貢献)
・昭和59年11月 勲四等瑞宝章

【その他の職歴】
・昭和19年4月~ 長野県計量器商業協同組合理事長
・昭和23年1月~ 信州度器(株)代表取締役
・昭和25年6月~ 橘生薬品工業(株)(現キッセイ薬品工業)代表取締役
・昭和25年6月~ 長野県製薬協会会長
・昭和28年2月~ 長野県農薬卸商業協同組合理事長
・昭和31年4月~ 長野県医薬品卸協同組合理事長
・昭和33年5月~ 全国農業卸商業協同組合連合会副会長
・昭和35年6月~ 信濃電気工業(株)代表取締役
・昭和35年6月~ 松本薬業会館理事長
・昭和36年9月~ 松本商工会議所議員
・昭和36年10月~ (有)ナベリン・ファーマシー代表取締役
・昭和37年4月~ 中信計量協会理事長
・昭和40年4月~ 富士弦楽器製造(株)取締役
・昭和41年4月~ 長野県度量衡(株)取締役
・昭和42年4月~ 鍋林物商(株)代表取締役
・昭和42年4月~ 長野県経営者協会常任理事
・昭和46年1月~ 長野県薬事審議会委員
・昭和47年1月~ 日本薬業政治連盟副会長
・昭和47年2月~ (株)日本ヘルス・インダストリー代表取締役社長
・昭和47年3月~ 成和化成(株)監査役
・昭和47年4月~ 松塩筑危険物安全協会会長
・昭和47年8月~ 長野県危険物安全協会会長
・昭和49年4月~ 鍋林サイエンス(株)取締役
・昭和53年7月~ 日本医薬品卸業連合会副会長
・昭和54年5月~ 鍋林電子工業(株)監査役
・昭和59年12月~ カタバミ(株)代表取締役社長
・昭和59年7月~ ファムコス(株)監査役


【OB座談会】

実施日:2016年5月18日 参加者:氏名、年齢、在職時の最終肩書

ob

●横山 由行さん 79歳
専務取締役

●佐々木 信行さん 85歳
取締役

●金井 禧松さん 79歳
医薬品事業部 薬粧部長
長野県医薬品卸協同組合事務局長

●斎木 博さん 84歳
鍋林株式会社 松本統括支店長

●曽根原 英臣さん 85歳
ナルコ薬品株式会社 代表取締役

 

【ホントのOJTを教えてくれた人】

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横山 由行さん
ヨーロッパへの機中の一コマ
ヨーロッパへの機中の一コマ

OJT(On-the-Job Training)は企業内の教育方法のひとつ。幸太郎社長のOJTとは…。

横山/
昭和37年から社長の海外視察は始まりました。私も同行したことがありましたが、当時は1回の出張が1カ月近くなることも多い時代でした。出張先でも社長は仕事に厳しく「今日訪問した企業のことは、今日のうちにレポートを書きなさい」と。英語の辞書を引きながら、夜中まで必死に書いたことを思い出します。OJTはそれだけじゃありません。「出張したらホテルで洗濯を毎日やれ」と言うのです。

金井/
ホテルの部屋は乾燥しているから、干しておけば部屋が乾燥しないというわけです。

横山/
私は内勤が多かったですから、出張はあまりなかったのですが、ある時、社長と一緒に東京への出張を命ぜられました。以前、社長から言われた通り、ホテルで洗濯をして干したのですが、風呂場に干したため翌朝までに完全に乾いていなかったのです。翌朝、社長から「洗濯は干したか?」と聞かれ、その旨を答えると「ベッドの近くに干したほうがいいぞ」と社長から言われ、納得したわけです。その後、社長と出張した時には、どこに干したか、わざわざ部屋まで見に来ましたよ(笑)。旅先でも自分で洗濯をするのが前提ですから、例え長期の海外出張でも下着は3枚。「いつでもトランクは空けておけ」というのが社長の考え方でした。今思えば、ホテルでの過ごし方ひとつとっても、ホントのOJTをしてもらったんですね。

佐々木/
私も社長と同行することがありました。「今日はどこへ泊るんだね?」と聞かれ、いつもの安い宿を答えると、「今日は私と同じホテルに泊まりなさい」と。ホテルニューオータニでした。驚きました。豪奢なレストランで食事も共にさせてもらいました。そうやって、私たちに少しずつ視野を広げる経験をさせてくれたんだと思いますね。

佐々木/
私が新潟に転勤した時、社長は私が真面目すぎてつまらない男だと思っていたらしく(笑)、パチンコに誘われました。「少しは視点を変えて、遊びを知った方がいい」ということだったんだと思います。型にはまらない度量のある人でした。

金井/
社長はある占術にも凝っていて、転勤が決まると呼び出され「住まいを見つけるなら、水に関するものがあるところにしろとか、君が先に家に入って、竈に火を入れて、まずは米を炊きなさい」とか言われましたよ。

横山/
引っ越しの日にちまで指定されたこともありましたよ。家内を連れていくのは何日以降にしなさいとか。そうしてゲンを担いで、新しい土地でもうまくいくよう願っていたのかもしれませんね。

 

【人情家】

金井 禧松
金井 禧松さん
本社事務室での幸太郎社長
本社事務室での幸太郎社長

社員を叱ることも多かったという幸太郎社長。それだけ、家族のように社員を大切に思っていたようです。

横山/
私はいつも社長の近くで仕事をしてきましたから、様々な指示や命令を受けてきました。もっとも「俺の言うことを聞かない社員」とも言われてきましたが(笑)。思い出すのは、よく、夜9時のニュースをテレビで見ては、自宅に電話をかけてきたことです。湾岸戦争があったときには「明日にでも東京へ行け」と言われましてね。世界情勢を見ながら会社のことを考えていることがよく分かりました。また、日々多忙な中でも週刊誌などにも目を通していて、掲載されていた話題を知らないでいると「週刊誌も買えない給料なのか!」と叱られましたよ(笑)。 社員になんでも言って、怒る人ではありましたが、少し経ってから必ずフォローをする、人情味のある社長でしたね。

金井/
横山さんは経営に関わる資金繰りを担当してきた人でしたから全幅の信頼を寄せていたんでしょうね。私が企画室にいる時などは、よく「横山はいるか」と電話をしてきたり、直接来たり。いないと「横山と連絡をとれ」と言ってわざわざ呼び出すんですよ。それで、横山さんが来るまで企画室で待っているのですが、その間、昔の苦労話を涙を流しながら語ってくれたことを思い出します。

佐々木/
昔は、会社と社長の自宅が同じ場所にありましたから、私たちが残業していると終わるまで待っていてくれて、飲みに誘ってもらいました。

横山/
時には自宅に呼んで「1杯飲んでいけ」と言われたり、社長の奥さんがラーメンを作ってごちそうしてくれたり。幸太郎社長が怒鳴った時などは、奥さんがフォローしてくれたこともありました。近くの河川敷で花火大会があった時などは社員を招待してごちそうしてくれました。正月には市内のお寺へ厄除けに出かけるなど、本当に家族ぐるみの付合いでした。

金井/
「社員はみんな家族」という感覚で、とても家庭的な会社でしたね。私が腰を痛めた時などは、お見舞いのほかに、腰痛に効くという民間療法を教えてくれたりしました。

佐々木/
私も親父をなくした時、しばらくしてから、自宅へわざわざ焼香にいらしてくださいました。

曽根原/
私は農薬部門を設立する時、農業高校から入社した第一号の社員だったのですが、幸太郎社長からじきじきに声を掛けていただきました。私が社長を務めたナルコ薬品は幸太郎社長の命名です。「ナルコユリ」は、しっかり根を張って伸びる植物であることから、将来へ向かって伸びるという意味を込めたと聞いています。

 

【心に響く言葉】

斎木 博
斎木 博さん

社長五訓「取引き先とは縁結びと思え」「商品には魂を入れよ」「自己の職務を果たせ」「会社の成長に遅れるな」「健康であれ」など、数多くの言葉が社員の心に残っています。

金井/
幸太郎社長はたくさんの名言を残しています。よく言われたのは「必ず約束を守れ」「現場を知れ」ということ。社長の誠実な人柄を表していると思います。

斉木/
年頭の辞や研修会、幹部会議などで多くの言葉をいただきましたが、心に残っているのは足元を見つめなおす「脚下照覧」。天台宗開祖の伝教大師・最澄の「一隅を照らす、すなわち此れ国宝なり」です。これは、現在自分が関与している持ち場を守り、ベストを尽くす人材。そうした存在こそ世の中になくてはならない国の宝である、という言葉です。

佐々木/
私は「誠実、明朗、実行」という言葉が忘れられませんね。

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日々の教えをメモにとり「訓話集」としてまとめたりしました(金井)

 

【偉大さを実感したこと】

佐々木 信行
佐々木 信行さん
昭和37年5月、宮村町の旧本社前(中央)
昭和37年5月、宮村町の旧本社前(中央)

社内外、国内外で積極的に活動していた幸太郎社長。社員からも偉大な存在でした。

佐々木/
私が入社したのは昭和21年でしたが、当時を思い出しても、若くして先代の跡を継いだ幸太郎社長は苦労が多かったと思います。戦後すぐに上京して仕入れ先を回り、今後の商売の継続のために頭を下げ、現金を持参して仕入れを行ったと聞いています。

横山/
戦後は闇取引も横行していたようですが、幸太郎社長はどんな時でも定価で納めることを徹底していました。例えば、品物が100個しかない時も必要な取引き先に平等に定価で配分してきました。私は当時のことは知りませんでしたが、鍋林が闇取引きを一切しなかったことは、後になって取引き先のお客様から聞いたことで「だから今でも鍋林から買うんだ」と言われ、誇らしく思いました。

金井/
鍋林は約束を守ってくれる会社、不公平さがない会社というイメージですね。自ら学ぶ姿勢は強く、社員教育も徹底していました。幸太郎社長は、知識のある人には頭を下げて力を借り、教えを乞うていました。だから社員教育には教育、建築は建築の分野に長けている人といった具合に全国から立派な方々を講師に迎えていました。

横山/
商品の取扱い分野を広げてきたのは、顧客の要望するものを供給できるようにしたいという幸太郎社長の考えです。戦後の日本で食料を増産するためには農薬が必要。そうなれば農薬は農薬の分野、食品は食品の分野という風に、人を育てながら分野を広げてきたんでしょうね。

金井/
常に一歩先のことを考えていた人だと思いますね。日本医薬品卸連合会の副会長になった時、その後の業界の発展につながる統一伝票の提案もしました。鍋林は給料が低い方だったみたいですが、「たくさん給料を出すと使ってしまうから」などと幸太郎社長は言っていました。それでいて企業の年金基金を創設することで、社員が老後もしっかり生活できるように、という配慮も忘れない人でした。

横山/
昭和30年代、海外視察に行く企業はまだまだ少ない時代でした。当時、医薬品でも海外メーカーが少しずつ日本に入ってきた時代でした。度重なる海外視察は、海外で知識を得るのはもちろんですが、幸太郎社長が狙っていたのは「日本の医薬品卸業界に鍋林あり」ということを海外のメーカーにアピールする意味もあったのではないかと思います。のちのち海外に行くと、どこへ行っても「ナベリン」という社名よりも「ミスター・シマ」の方が知れ渡っていましたけどね。イチ早く海外へ行った功績は大きいと思います。

 

【幸太郎氏の時代を知るOBから、これからの鍋林に期待すること】

曽根原 英臣
曽根原 英臣さん
講話する幸太郎社長
講話する幸太郎社長

OBのみなさんだからこそ語れる後輩たちへのメッセージ

横山/
事業分野を広げていくのはもちろん、お客様の望んでいる情報活動を通じて、さらに広げる企画に期待したいと思います。海外も大事ですが国内もぜひ大事にしてほしいですね。また、グループとしての将来像を思い描き、商売でも連携を強め、結束することで会社全体が儲かる仕組みを構築してほしいと思います。

曽根原/
これからも事業部ごとのコミュニケーションを大切に、さらなる発展を期待しています。

佐々木/
会社の成長のために、事業部ごとの発展も重要ですが、横のつながりも今以上に大切にしていってほしいと思います。

斉木/
相互信頼と脚下照覧を推し進め、さらに発展してほしいと思います。幸太郎社長がよく口にしていた「誠実・明朗・実行」です。

金井/
社会貢献のできる企業になってほしいですね。お金を出すだけではなく、当たり前のことは当たり前に、1人ひとりが地域でも活躍する企業になっていただきたいです。期待しています。

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